2006年 03月 29日
「武士道-戦闘者の精神-」 葦津珍彦 徳間書店 |
葦津珍彦(あしづうずひこ)は在野の神道思想家であり、右翼理論家である。
その葦津の「武士道-戦闘者の精神-」 を読んでみた。
新渡戸の「武士道」が日本人の倫理的精神的基盤としての武士道を語ったものであるのに対して、葦津の著作はあくまで武士や軍人の精神をについて書かれた本である。
芦津はまず武士道の原型を戦国武将に求め、特に後藤又兵衛基次を武士道精神の典型であるとする。
武士道は「忠と義」を尽くすものであると一般に考えられているが、これは江戸時代の社会規範として作られたものであると葦津は批判的だ。
葦津はいう「武士道とは己の本心のままに動くことである」と。
それでは、自己中心的な単なるわがままとはどう違うのか。
それはまず自分の命をかけた行動であること。自分の本心にもとづき生死をかけて交わっていく中で生まれる信頼関係が本来の忠義である。
そして、そのような武士の間での共通する考えが「彼岸信仰」であるとしている。
明日死ぬかも知れない自分、今日酒を酌みかわした男が明日は自分の命を奪うかもしれない。そのような状況で彼岸つまりあの世の存在を確信することが、武士道の基本的な信仰である・・・と。
そうなのかも知れない。死と言うものに向き合うという習慣がない私たちは想像でしか感じることは出来ないが。
葦津は儒教と結びついた武士道は評価していないから、話は戦国時代から徳川260年を飛び越えて幕末に飛んでいく。
そこで、芦津の考える武士道精神を持った人物が紹介されていく。高杉晋作、吉田松陰、桂小五郎、西郷隆盛、坂本竜馬。
そして「明治思想史における右翼と左翼の源流」の章は分量から行ってもこの本の中核をなす。
葦津は左翼と右翼はともに民権思想の中から生まれた同胞であるという。そのうつ議会設立運動の色合いを強くしていったのが左翼であり、不平等条約改正運動に傾いていったのが右翼であると。
人物の流れでいくとつまり、
民権思想
中江兆民←交流→頭山滿
↓ ↓
弟子 弟子
↓ ↓
幸徳秋水 内田良平
「非戦論」←対立→「主戦論」
↓ ↓
左翼 右翼
本が後半になるに従って、葦津が紹介する人物たちと「武士道」との関連がわからなくなってくる。
芦津が武士道精神にかなう人間として最も持ち上げたいのはおそらく頭山滿だろうが、彼のどこが武士道に一致するのか良くわからない。なんとなくずるい感じのする本である。
参考)葦津珍彦の略歴
明治42(1909)年福岡生まれ。父の耕次郎は箱崎宮社家であったが、神職として一生を送らずに事業家となり、社寺工務所を経営した在野の神道家だった。耕次郎は一方で、朝鮮神宮に朝鮮民族の祖神ではなく天照大神をまつることに強く抵抗し、韓国併合には猛反対。日華事変(日中戦争)勃発以後は日本軍占領地内の中国難民救済のために奔走した。
珍彦はその長男で、東京府立五中を卒業後、昭和3年4月福島高等学校に進むが中退。はじめは左翼的青年であったが、父の姿を見て昭和7年転向し父耕次郎と共に神社建築に従事する。
戦前は神社建築に携わる一方、俗に「右翼の総帥」といわれる玄洋社の頭山満、当時随一といわれた神道思想家の今泉定助、朝日新聞主筆でのちに自由党総裁となる緒方竹虎などと交わり、中国大陸での日本軍の行動や東条内閣の思想統制政策などを強烈に批判した。
9年には合資会社社寺工務所社長となる。12年には上海戦線を視察し、日本軍の行動を批判、15年には日独伊三国軍事同盟に反対する。16年に福岡県神社連盟に参加し、修練道場葦芽寮を開設、その後東條政権下で戦時刑事特別法改正に反対し検挙される。
終戦後は、「皇朝防衛、神社護持」への献身を決意し、神社本庁の設立、剣璽(けんじ)御動座復古、元号法制定などに中心的役割を果たした。昭和天皇が極東裁判に出廷する事態になれば特別弁護を買って出ようと準備していた、といわれる。
30年には不二歌道会相談役、32年には憲法の会世話人に就任。36年には「国民統合の象徴」を掲載予定だった月刊誌「思想の科学」37年新年号が、発行元の中央公論社の自主規制で裁断される「思想の科学」事件が発生。43年4月に神社新報社を退社してからも、その著作活動を通じて在野の神道家としての姿勢を貫いた。著作は『神道的日本民族論』『神国の民の心』『国家神道とは何だったのか』など50冊を超える。一介の野人を貫いて、平成4年春、82歳でこの世を去った。
その葦津の「武士道-戦闘者の精神-」 を読んでみた。
新渡戸の「武士道」が日本人の倫理的精神的基盤としての武士道を語ったものであるのに対して、葦津の著作はあくまで武士や軍人の精神をについて書かれた本である。
芦津はまず武士道の原型を戦国武将に求め、特に後藤又兵衛基次を武士道精神の典型であるとする。
武士道は「忠と義」を尽くすものであると一般に考えられているが、これは江戸時代の社会規範として作られたものであると葦津は批判的だ。
葦津はいう「武士道とは己の本心のままに動くことである」と。
それでは、自己中心的な単なるわがままとはどう違うのか。
それはまず自分の命をかけた行動であること。自分の本心にもとづき生死をかけて交わっていく中で生まれる信頼関係が本来の忠義である。
そして、そのような武士の間での共通する考えが「彼岸信仰」であるとしている。
明日死ぬかも知れない自分、今日酒を酌みかわした男が明日は自分の命を奪うかもしれない。そのような状況で彼岸つまりあの世の存在を確信することが、武士道の基本的な信仰である・・・と。
そうなのかも知れない。死と言うものに向き合うという習慣がない私たちは想像でしか感じることは出来ないが。
葦津は儒教と結びついた武士道は評価していないから、話は戦国時代から徳川260年を飛び越えて幕末に飛んでいく。
そこで、芦津の考える武士道精神を持った人物が紹介されていく。高杉晋作、吉田松陰、桂小五郎、西郷隆盛、坂本竜馬。
そして「明治思想史における右翼と左翼の源流」の章は分量から行ってもこの本の中核をなす。
葦津は左翼と右翼はともに民権思想の中から生まれた同胞であるという。そのうつ議会設立運動の色合いを強くしていったのが左翼であり、不平等条約改正運動に傾いていったのが右翼であると。
人物の流れでいくとつまり、
民権思想
中江兆民←交流→頭山滿
↓ ↓
弟子 弟子
↓ ↓
幸徳秋水 内田良平
「非戦論」←対立→「主戦論」
↓ ↓
左翼 右翼
本が後半になるに従って、葦津が紹介する人物たちと「武士道」との関連がわからなくなってくる。
芦津が武士道精神にかなう人間として最も持ち上げたいのはおそらく頭山滿だろうが、彼のどこが武士道に一致するのか良くわからない。なんとなくずるい感じのする本である。
参考)葦津珍彦の略歴
明治42(1909)年福岡生まれ。父の耕次郎は箱崎宮社家であったが、神職として一生を送らずに事業家となり、社寺工務所を経営した在野の神道家だった。耕次郎は一方で、朝鮮神宮に朝鮮民族の祖神ではなく天照大神をまつることに強く抵抗し、韓国併合には猛反対。日華事変(日中戦争)勃発以後は日本軍占領地内の中国難民救済のために奔走した。
珍彦はその長男で、東京府立五中を卒業後、昭和3年4月福島高等学校に進むが中退。はじめは左翼的青年であったが、父の姿を見て昭和7年転向し父耕次郎と共に神社建築に従事する。
戦前は神社建築に携わる一方、俗に「右翼の総帥」といわれる玄洋社の頭山満、当時随一といわれた神道思想家の今泉定助、朝日新聞主筆でのちに自由党総裁となる緒方竹虎などと交わり、中国大陸での日本軍の行動や東条内閣の思想統制政策などを強烈に批判した。
9年には合資会社社寺工務所社長となる。12年には上海戦線を視察し、日本軍の行動を批判、15年には日独伊三国軍事同盟に反対する。16年に福岡県神社連盟に参加し、修練道場葦芽寮を開設、その後東條政権下で戦時刑事特別法改正に反対し検挙される。
終戦後は、「皇朝防衛、神社護持」への献身を決意し、神社本庁の設立、剣璽(けんじ)御動座復古、元号法制定などに中心的役割を果たした。昭和天皇が極東裁判に出廷する事態になれば特別弁護を買って出ようと準備していた、といわれる。
30年には不二歌道会相談役、32年には憲法の会世話人に就任。36年には「国民統合の象徴」を掲載予定だった月刊誌「思想の科学」37年新年号が、発行元の中央公論社の自主規制で裁断される「思想の科学」事件が発生。43年4月に神社新報社を退社してからも、その著作活動を通じて在野の神道家としての姿勢を貫いた。著作は『神道的日本民族論』『神国の民の心』『国家神道とは何だったのか』など50冊を超える。一介の野人を貫いて、平成4年春、82歳でこの世を去った。
by mec666cem
| 2006-03-29 17:02
| 読書