2006年 10月 15日
坂東眞砂子の「子猫殺し」 |
「死国」などで知られる直木賞受賞小説家の坂東眞砂子が書いた「子猫殺し」という随筆が波紋を呼んでいる。
坂東は現在タヒチに住んでおり、ペットとして雌猫を飼っているらしいのだが、猫の生殖する権利を守るという考えで避妊手術はしていないらしい。当然猫は仔猫を生んでしまうわけであるが、坂東はこの生まれてきた仔猫を近所の崖の上から落として殺しているのだという。
衝撃的な随筆である。
しかし、この随筆に対する反応というものにも、人間の想像力の限界と言うものを考える上で私は衝撃を感じざるを得ない。
坂東眞砂子の随筆の原文は「こちらのブログ」から読むことが出来る。(ブログ自体は坂東氏を批判したもの)
この文章に対して動物愛護団体や愛護動物愛好家から激しい抗議があるであろうことは、坂東自身もこの文章を掲載した産経新聞も予想していたことだろう。なぜあえてこんな暴挙を・・・・と日ごろペット愛好家を小馬鹿にする文章を書いている私ですら思うのである。恐怖小説を得意とする坂東眞砂子は露悪趣味的なところがあるようなのだが、あるいは小説が行き詰まって理性を失っていたのかも?と想像してしまう。
坂東の文章は「愛護動物愛好家」(以下「愛動家」と略)の気持ちを心底逆なでする。それは、坂東の文章が、「動物を飼うという人間のエゴ」を目に見える形で示しているからだ。
けれども、坂東の行為は、「動物を愛する」ことと正反対であると一般に思われている「動物を殺す」という形で現れているため、愛動家は自分の怒りの分析を出来ずに脊髄反射的に坂東を反撃してしまうのだ。
坂東の言い分を冷静に聞いてみよう。
①愛玩動物を飼うという行為自体が人間の都合、人間のわがままである
②生殖をするということは動物にとって生命力の根源である
③生殖を出来ないようにする避妊手術と、生殖をさせた上で子猫を処分することでは、本質的に良い悪いはなく、坂東には後者のほうが納得できる方法だった
とまあここまでは私はどちらかといえば坂東の味方なのである。
以上のことは、愛動家が普段考えないようにしている(あるいは本当に何も考えていない)ことだからだ。愛動家がどんなに「愛情」を注ごうとも、実際には愛玩動物はその「生」と「死」のみならず「性」も人間に支配されてしまっている。
けれども、坂東はさらにこう言う。
④嫌なことに手を染めずにすむ避妊手術とは違い、子猫を殺すのにあたって私(坂東)は十分な痛みと悲しみを感じている。
坂東はこう言いたいのだ。ペットを飼う上での「常識」に従って、それほどの罪悪感なしに避妊手術を施してしまう飼い主より、痛みを感じつつ仔猫を殺している自分のほうが、正面からペットの「生」と「死」と「性」に向き合っているのだ、と。
動物を飼うという本質的に残酷な行為を愛とか善意とかでくるんでしまう鈍感さを、恐怖小説家である坂東の感性が許さないのだろう。しかしこれはやはり言い訳である。
坂東の随筆は生ぬるい善意に塗り固められた常識に風穴を開けるものだが、最後の最後には自己を守るためにその「常識の盾」を持ち出しているのだ。この傾向は批判を浴びてからの弁解の文章でさらに顕著になっていく・・・・・
ネットで「坂東眞佐子」という誤った名前で検索をかけると、ある獣医のブログが引っかかってくる。獣医はもちろん坂東を強い口調で非難している。
獣医は言う、避妊手術は子供を生まないためでだけではなく、手術を受ける猫が健康で長生きするためにも有用である。坂東はそんなことも知らないで猫を飼っており、そもそも猫を飼う資格がないのだ・・・・と。
しかしこれこそ人間のエゴなのだ。
獣医が言っていることは、例えて言うなら、「おもちゃが壊れずに長持ちする方法」を示しているに過ぎない。
一方の坂東はその方法はともかくとして、人間にとってのおもちゃの存在理由を問うているのだ。
私は坂東眞砂子を弁護する気はさらさらない。けれどもこの問題はペットを飼うということの本質を考える上で、重要な試金石になると思っているのだ。
「愛護動物愛好家」「愛動家」という私の言葉にカチンと来てしまう人も多いだろう。しかしこれは正当な表現である。(因みに「愛護動物」という言葉は「動物愛護法」という法律の条文にもある正式な日本語である)
いわゆる動物愛護を唱える人は、すべての動物の愛護を考えているわけではないからだ。彼らは「愛護すべき動物=愛護動物」のみを愛護するのだ。
まず生物のうちに動物と植物で大きな境界線を引いている。そして、その動物の中でも愛護すべきものとそうでないものを区別している。どのような基準で決められているのかはわからないが、少なくとも私の管見ではゴキブリやピロリ菌の権利を守ろうとする動物愛護家はまだ現れていないようだ。愛動家というのは明確な差別主義者なのだ。
それでも、私はそれを非難しようとは思わない。ただ彼らが、そのことをわかってやっているのかを疑問視しているだけだ。
動物に対して人間がどのような扱いをすべきかについてはその社会の歴史や文化と大きくかかわっており、その規範は心理的生理的にも強固なものだ。私は鳥や豚や牛や羊が大好きであるが、犬や猫を食べるのには抵抗がある。釣った魚をさばいて食べることは簡単に出来るが、自分の手で豚を屠り、解体、料理して食べることは不可能だ。
それゆえ坂東眞砂子の随筆は、動物を飼うことの意義を問い直そうとする姿勢は評価できる。
けれども、その行為は反社会的であり非倫理的である。もし坂東の仔猫殺しが真実であったとしても、それを新聞のコラムなどでは書くべきではいのだ。現代社会で、動物を殺すには「それ相応の手続き」が必要なのである。
①愛玩動物を飼うという行為自体が人間の都合、人間のわがままである
②生殖をするということは動物にとって生命力の根源である
このことから導き出される常識的な結論は
③´だから私は動物を飼わない
であるはずだからだ。
どうしても飼いならば、生まれた仔猫の引き取り先を確保する方策を考えるはずだ。仔猫を殺してまでもその仔猫を生んだ親猫を飼いたいというのはやはり尋常ではない、と私も思う。
坂東の行為は愛動家の心の歪みを最大限増幅させた存在なのだ。ゆえに愛動家は悲鳴を上げて彼女の存在を否定でしなければならない。
生んだ仔猫を殺してまで動物を飼いたいのか?
去勢手術をしてまで動物を飼いたいのか?
首輪につないでまで動物を飼いたいのか?
動物を愛するなら自然に帰してあげれば?
これら間には明確な境界はない。
愛動家は他の生物の命を過剰に消費して生きていく人間の「業」というものに無自覚である。
しかし、それを公的な機関で批判するにはそれなりのやり方がある。坂東の方法はステーキを食べている人に牛の屠殺現場の写真を見せる愛動家と変わりがないのだ。
愛護動物の中には、人間に飼われないと生きていけないほどに、畸形的肉体改造を施されているものも多い。そのような動物に服を着せ、首輪を付けて引き連れている動物と人間の番を見ると私には、「憐れ」とう言葉しか思い浮かばない。自らが作り出した哀れなものを愛するのもまた人間の業なのかも知れない。
坂東は現在タヒチに住んでおり、ペットとして雌猫を飼っているらしいのだが、猫の生殖する権利を守るという考えで避妊手術はしていないらしい。当然猫は仔猫を生んでしまうわけであるが、坂東はこの生まれてきた仔猫を近所の崖の上から落として殺しているのだという。
衝撃的な随筆である。
しかし、この随筆に対する反応というものにも、人間の想像力の限界と言うものを考える上で私は衝撃を感じざるを得ない。
坂東眞砂子の随筆の原文は「こちらのブログ」から読むことが出来る。(ブログ自体は坂東氏を批判したもの)
この文章に対して動物愛護団体や愛護動物愛好家から激しい抗議があるであろうことは、坂東自身もこの文章を掲載した産経新聞も予想していたことだろう。なぜあえてこんな暴挙を・・・・と日ごろペット愛好家を小馬鹿にする文章を書いている私ですら思うのである。恐怖小説を得意とする坂東眞砂子は露悪趣味的なところがあるようなのだが、あるいは小説が行き詰まって理性を失っていたのかも?と想像してしまう。
坂東の文章は「愛護動物愛好家」(以下「愛動家」と略)の気持ちを心底逆なでする。それは、坂東の文章が、「動物を飼うという人間のエゴ」を目に見える形で示しているからだ。
けれども、坂東の行為は、「動物を愛する」ことと正反対であると一般に思われている「動物を殺す」という形で現れているため、愛動家は自分の怒りの分析を出来ずに脊髄反射的に坂東を反撃してしまうのだ。
坂東の言い分を冷静に聞いてみよう。
①愛玩動物を飼うという行為自体が人間の都合、人間のわがままである
②生殖をするということは動物にとって生命力の根源である
③生殖を出来ないようにする避妊手術と、生殖をさせた上で子猫を処分することでは、本質的に良い悪いはなく、坂東には後者のほうが納得できる方法だった
とまあここまでは私はどちらかといえば坂東の味方なのである。
以上のことは、愛動家が普段考えないようにしている(あるいは本当に何も考えていない)ことだからだ。愛動家がどんなに「愛情」を注ごうとも、実際には愛玩動物はその「生」と「死」のみならず「性」も人間に支配されてしまっている。
けれども、坂東はさらにこう言う。
④嫌なことに手を染めずにすむ避妊手術とは違い、子猫を殺すのにあたって私(坂東)は十分な痛みと悲しみを感じている。
坂東はこう言いたいのだ。ペットを飼う上での「常識」に従って、それほどの罪悪感なしに避妊手術を施してしまう飼い主より、痛みを感じつつ仔猫を殺している自分のほうが、正面からペットの「生」と「死」と「性」に向き合っているのだ、と。
動物を飼うという本質的に残酷な行為を愛とか善意とかでくるんでしまう鈍感さを、恐怖小説家である坂東の感性が許さないのだろう。しかしこれはやはり言い訳である。
坂東の随筆は生ぬるい善意に塗り固められた常識に風穴を開けるものだが、最後の最後には自己を守るためにその「常識の盾」を持ち出しているのだ。この傾向は批判を浴びてからの弁解の文章でさらに顕著になっていく・・・・・
ネットで「坂東眞佐子」という誤った名前で検索をかけると、ある獣医のブログが引っかかってくる。獣医はもちろん坂東を強い口調で非難している。
獣医は言う、避妊手術は子供を生まないためでだけではなく、手術を受ける猫が健康で長生きするためにも有用である。坂東はそんなことも知らないで猫を飼っており、そもそも猫を飼う資格がないのだ・・・・と。
しかしこれこそ人間のエゴなのだ。
獣医が言っていることは、例えて言うなら、「おもちゃが壊れずに長持ちする方法」を示しているに過ぎない。
一方の坂東はその方法はともかくとして、人間にとってのおもちゃの存在理由を問うているのだ。
私は坂東眞砂子を弁護する気はさらさらない。けれどもこの問題はペットを飼うということの本質を考える上で、重要な試金石になると思っているのだ。
「愛護動物愛好家」「愛動家」という私の言葉にカチンと来てしまう人も多いだろう。しかしこれは正当な表現である。(因みに「愛護動物」という言葉は「動物愛護法」という法律の条文にもある正式な日本語である)
いわゆる動物愛護を唱える人は、すべての動物の愛護を考えているわけではないからだ。彼らは「愛護すべき動物=愛護動物」のみを愛護するのだ。
まず生物のうちに動物と植物で大きな境界線を引いている。そして、その動物の中でも愛護すべきものとそうでないものを区別している。どのような基準で決められているのかはわからないが、少なくとも私の管見ではゴキブリやピロリ菌の権利を守ろうとする動物愛護家はまだ現れていないようだ。愛動家というのは明確な差別主義者なのだ。
それでも、私はそれを非難しようとは思わない。ただ彼らが、そのことをわかってやっているのかを疑問視しているだけだ。
動物に対して人間がどのような扱いをすべきかについてはその社会の歴史や文化と大きくかかわっており、その規範は心理的生理的にも強固なものだ。私は鳥や豚や牛や羊が大好きであるが、犬や猫を食べるのには抵抗がある。釣った魚をさばいて食べることは簡単に出来るが、自分の手で豚を屠り、解体、料理して食べることは不可能だ。
それゆえ坂東眞砂子の随筆は、動物を飼うことの意義を問い直そうとする姿勢は評価できる。
けれども、その行為は反社会的であり非倫理的である。もし坂東の仔猫殺しが真実であったとしても、それを新聞のコラムなどでは書くべきではいのだ。現代社会で、動物を殺すには「それ相応の手続き」が必要なのである。
①愛玩動物を飼うという行為自体が人間の都合、人間のわがままである
②生殖をするということは動物にとって生命力の根源である
このことから導き出される常識的な結論は
③´だから私は動物を飼わない
であるはずだからだ。
どうしても飼いならば、生まれた仔猫の引き取り先を確保する方策を考えるはずだ。仔猫を殺してまでもその仔猫を生んだ親猫を飼いたいというのはやはり尋常ではない、と私も思う。
坂東の行為は愛動家の心の歪みを最大限増幅させた存在なのだ。ゆえに愛動家は悲鳴を上げて彼女の存在を否定でしなければならない。
生んだ仔猫を殺してまで動物を飼いたいのか?
去勢手術をしてまで動物を飼いたいのか?
首輪につないでまで動物を飼いたいのか?
動物を愛するなら自然に帰してあげれば?
これら間には明確な境界はない。
愛動家は他の生物の命を過剰に消費して生きていく人間の「業」というものに無自覚である。
しかし、それを公的な機関で批判するにはそれなりのやり方がある。坂東の方法はステーキを食べている人に牛の屠殺現場の写真を見せる愛動家と変わりがないのだ。
愛護動物の中には、人間に飼われないと生きていけないほどに、畸形的肉体改造を施されているものも多い。そのような動物に服を着せ、首輪を付けて引き連れている動物と人間の番を見ると私には、「憐れ」とう言葉しか思い浮かばない。自らが作り出した哀れなものを愛するのもまた人間の業なのかも知れない。
by mec666cem
| 2006-10-15 03:49
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