2006年 06月 02日
「リトル・ブッダ」 ベルナルド・ベルトルッチ監督 1993年 イギリス・フランス映画 |
「ラストエンペラー」「シェルタリングスカイ」と一緒にベルトルッチの東洋三部作といわれる映画の一つ。三部作といっても東洋を舞台にしているとういうだけで相互関係はないらしい。因みにこの映画で若き日のブッダを演じているのは、今のように売れる前のキアヌ・リーブスである。
「娯楽映画と言うわけではないし、かといって芸術的でもない。よくいえば詩的、悪く言えば情緒的な映像で話がつづれらていくだけの映画」
これは「ラストエンペラー」に対する某氏の批評である。
この「リトル・ブッダ」を観た私もそう思う。そして、ベルトルッチ自身もおそらくそれでいいのだと思っているのではないか?
この映画は、チベットの高僧の生まれ変わりの子供を探す物語に、ブッダの悟りに至るまでの半生を挿入する構成となっている。
高僧の生まれ変わりとされる男の子はシアトルで両親と暮らす普通の米国人の男の子である。それがチベットのラマ僧と接するうちに次第に仏教的なものに感化されていき、米国での資本主義競争社会で痛手を負った両親もそれに引きずられていく。
まるで世界仏教普及協会が製作したのではないかと思われるほど、ご都合主義的な仏教宣伝映画とも見てるとれる映画だ。
それで、私がこの映画を楽しめなかったというかというとそうではない。とても面白かったのである。
その理由は、おそらく私が辺縁にいる人間だからだ。それは東洋と西洋の境界でもあるし、仏教世界の辺縁でもある。
欧米人にとってたぶんこの映画はエキゾチシズムあふれる映画である。時間的・思想的異界(ブッダの生涯)と空間的異界(ブータンやカトマンズの光景)を交互に楽しむことができる。
しかし、東洋と西欧の“あいのこ”であるわれわれ現代日本人にはまた別の感じ方がある。
そして仏教に関しても、われわれは辺縁にいるのだ。
日本は仏教が最も普及している国の一つであるが、それは大乗仏教に偏向し、かつその多くは日本人が独自にこしらえたものだ。チベット仏教からみたら、日本の仏教の多くは仏教系の新興大衆宗教(あるいは習俗)に過ぎないのだ。
そんな中で私は「微妙に揺れ動く異国情緒」の中でこの映画を楽しくことが出来た。そう、やっぱりベルトルッチは情緒の人なのだ。
ブッダ教えが「煩悩の克服」と「中道」ぐらいしか描かれていない、特殊効果がハリウッド映画に比べて安っぽい、など文句の付け所は一杯あるのだが。私は十分楽しめた。ちょっと変な愛すべき映画であると思う。
「娯楽映画と言うわけではないし、かといって芸術的でもない。よくいえば詩的、悪く言えば情緒的な映像で話がつづれらていくだけの映画」
これは「ラストエンペラー」に対する某氏の批評である。
この「リトル・ブッダ」を観た私もそう思う。そして、ベルトルッチ自身もおそらくそれでいいのだと思っているのではないか?
この映画は、チベットの高僧の生まれ変わりの子供を探す物語に、ブッダの悟りに至るまでの半生を挿入する構成となっている。
高僧の生まれ変わりとされる男の子はシアトルで両親と暮らす普通の米国人の男の子である。それがチベットのラマ僧と接するうちに次第に仏教的なものに感化されていき、米国での資本主義競争社会で痛手を負った両親もそれに引きずられていく。
まるで世界仏教普及協会が製作したのではないかと思われるほど、ご都合主義的な仏教宣伝映画とも見てるとれる映画だ。
それで、私がこの映画を楽しめなかったというかというとそうではない。とても面白かったのである。
その理由は、おそらく私が辺縁にいる人間だからだ。それは東洋と西洋の境界でもあるし、仏教世界の辺縁でもある。
欧米人にとってたぶんこの映画はエキゾチシズムあふれる映画である。時間的・思想的異界(ブッダの生涯)と空間的異界(ブータンやカトマンズの光景)を交互に楽しむことができる。
しかし、東洋と西欧の“あいのこ”であるわれわれ現代日本人にはまた別の感じ方がある。
そして仏教に関しても、われわれは辺縁にいるのだ。
日本は仏教が最も普及している国の一つであるが、それは大乗仏教に偏向し、かつその多くは日本人が独自にこしらえたものだ。チベット仏教からみたら、日本の仏教の多くは仏教系の新興大衆宗教(あるいは習俗)に過ぎないのだ。
そんな中で私は「微妙に揺れ動く異国情緒」の中でこの映画を楽しくことが出来た。そう、やっぱりベルトルッチは情緒の人なのだ。
ブッダ教えが「煩悩の克服」と「中道」ぐらいしか描かれていない、特殊効果がハリウッド映画に比べて安っぽい、など文句の付け所は一杯あるのだが。私は十分楽しめた。ちょっと変な愛すべき映画であると思う。
by mec666cem
| 2006-06-02 20:45
| 映画・TV