2009年 01月 16日
現代映画聖書 |
「立川志らくの現代映画聖書」 立川志らく 講談社
“独断と偏見で”という常套句がある。多くは批判されることを予想して防護線的に使用される言葉だ。つまり日本では公の場で自分の考えを言うときに、周囲の人の意見を考慮してバランスをとりつつ発言する、という態度がよしとされているわけである。しかしそのような意見は面白くもないし、役にも立たない。
もう二十年ほども前になるが映画評論家の四方田犬彦がこんなことを言っていた。
映画評論家の文章はどうしてこんなにもつまらないのか?それは映画評論家が馬鹿だからなのではない、そもそも馬鹿が映画評論家になるのだ。
何の才覚も大した頭脳もないのに、文筆家とか評論家になりたいと欲したとき、映画評論家はちょうどよい仕事なのだ、と。
映画をみるためにはわざわざ映画館まで行き、結構な代金を払った上二時間以上も狭い席に縛り付けられていなければならない。そして見終わった後に「観なきゃよかった」と思うこともしばしばである。映画は暴力的なメディアなのだ。だから、皆映画の評判を雑誌などで確認してから出かけていく、だから雑誌の映画評欄には一定の需要がある。
本書の冒頭で、映画評論家への苦言が呈される。一日に三本も映画を観るような人間にまともな映画評論ができるのか?と。たしかに、一日何本を映画を見る様ない人物は、映画であれば何でもよいのだ。映画に犯されるのが幸福な人たちなのだろうと思う。私は二時間を超える映画はそれだけで気が重い。
福田和也の「作家の値うち」もそうだったが、「現代映画聖書」はガイドブックとして十二分に役に立つ。
どうしてって著者の好みがはっきりしているためだ。現代の日本映画をなぜ観ないかもきちんと書いていある。
しばらくは、この本を参考に映画を鑑賞することにしたい。
ただし、立川志らくも相当な映画好きであり、私などから見たら「あっち側」の人である。
映画好きが昂じて自分でも映画撮っちゃうなんで、十分に痛いです。
by mec666cem
| 2009-01-16 11:26
| 読書